審査

審査であって、試験ではない。

違い、分りますかね?

私的解釈ですが、

「試験」は、その試験の場で、規定の点数を獲得できればクリアできるもの
また、クリアすることでなんらかの資格や権利を得られるもの。

「審査」は、その審査の場に臨むまでの過程も含め、その受審者により基準が変動するもの。
クリアというよりも、「認めてもらえる」もの。

と思っています。

子供のクラスの保護者の方から、

「腕立て伏せ30回が絶対にできないとダメなんですか?」

と問われることがあります。

答えは、

「そんなことはありません。」です。

審査の科目に腕立て伏せ30回があることが分っている。

審査の日までに腕立て伏せ30回ができるように精一杯努力する。

そして審査会当日、30回完遂に向かって精一杯頑張る。

結果、できなくてもいいんです。
(そりゃ、できた方が良いですが)

「結果」よりも「過程」を見ているんです。私は。

私(審査員)の顔が、自分の方に向いていないときはチョコチョコやって回数をごまかそうとする人がいます。

また、審査科目にあるのが分っているのに十分な準備をしてこない人もいます。

まだ余力がありそうなのに、他の人が潰れていたら一緒になって止めてしまう人もいます。

全部、私(審査員)にバレています。

他の科目についても同様です。

基本の技、一本一本に真摯に取り組んでいるか?
移動では、辛くなっても楽な方に逃げていないか?
型は回数を十分にこなしてきたか?

全て審査員には分ります。

守破離という言葉が武道の世界にはあります。

まず、「守」です。

新極真会の道場では、返事は「押忍」です。
つまり、「Yes」しかないワケです。

師の教え・助言に、「押忍」で答える。

その時は違うんじゃないかと思っていても、後にそれが正しかったことが分ります。

「押忍」が本心から言えるようになった時、守の卒業(=黒帯)が近いのだと思います。

その分、師の側は、いい加減なことは言えないし、その生徒一人ひとりのことを真剣に考えてないといけません。

「まだ早いです。」

「しません。」

「いやです。」

そのような返事が生徒から返ってくることがあります。

私の事を信用されていないということです。
自分もまだまだダメだなと思います。
進言・助言をする時、その生徒の事を真剣に考えています。
時には数日に渡って考えることもあります。

「そこで立ち止まっていても成長できないんだよ」って言葉が出そうになりますが、それ以上は言いません。
気付いてほしいから。

審査で生徒ができていないことは、私がきちんと指導できていないという事です。
(技術だけでなく、精神的な面も含めて)

審査をしながらも、自分自身の審査にもなっているワケです。

今年は例年よりも審査会の回数を増やすように予定していますが、その分、一回一回の審査会が軽いものになってしまわないか心配になってきました。

そうなるもならないも、私の指導次第です。
道場生が「守」の実践ができ、順調に成長していけるよう指導力を磨きたいと思います。