耐え難きを耐え
忍び難きを忍び
押さば押せ
引かば押せ
これ即ち 自己滅却の精神也
我が道に
如何に険しき山あれど
踏みてぞ越えん
押忍の精神
「男の修行」 山本五十六
苦しいこともあるだろう。
云い度いことも阿るだろう。
不満なこともあるだろう。
腹の立つこともあるだろう。
泣き度いこともあるたろう。
これらをじつと
古らえてゆくのが
男の修行である。
「そんなもん、ヤ○ザの世界と変わらんだろ!」
と、取られるのか。
「いやいや、これこそが武道家の精神!
それでこそ日本男児!」
と、取られるのか。
どちらの方が多いんでしょうかね?
「押忍」とは「押」と「忍」の二文字より成り立ち、その内、忍とは刃に心と書く。
刃(カタナ)とは日本武士の魂であり、我々にしてれば拳足こそが刃である。
研いていない刃は鈍ら(ナマクラ)であり、イザという時に本来の役に立たない。
同様に拳足も日頃より、研き、鍛えておかねばならないのである。
当然、切れ味鋭い刃は武器にもなるが、凶器にもなり得る。
刃は抜身であってはならない。武士は普段は刃を鞘に収め、
無闇に抜き放つことはあってはならないとされていた。
空手も同様、真に必要な時以外にはその拳足を振るってはならない。
蛮勇で振るった技はすでに拳足ではなく、凶器に過ぎない。
心という鞘に収めて制御してこそ「技」である。
故に刃と心は合わせて一字で忍と書く。
その「技」と「心」を以ってして、何を「押」えるのか?
当然、自己に未熟と他者の不当な侵略や暴力を押さえ止めるのである。
自身を護り、かつ仲間を護る護身の術、精神に他ならない。
押忍とは武の精神の表れであり、武とは二つの弋を止めると書く。
組手中、気合いは大いに結構。
ところが、チンピラのケンカのような怒声は×。
練習試合終了後、該当の生徒に注意しました。
また、試合場への入退場の礼・挨拶がきちんとできていない子にも注意しました。
いま現在のレベルで、きちんとできる力を有していない子には注意してないです。
中には、まだ声出しもできない子もいますから。
その子が頑張って声を出している分には、声が小さいと感じても注意していません。
例えば、60点の実力の子が65点だったら褒めますが、
100点の力を持っている子が65点だったら叱ります。
同じ65点でも、その子によって対応が・指導が違います。
スピード違反の取り締まりではないんです。
○○デシベル以上の声の大きさだとO.K.とかではありません。
道場に稽古に来た際、
「声が小さい! 出ていって挨拶をもう一回やりなおせ!」
と注意される子がチラホラいます。
ほとんどの子は、もう一度やり直します。
しかし中には、
「いや、さっききちんとしました。」
と口答えする子も稀にいます。
自分の基準ではきちんとしたつもり。
でも、先生にやり直しを命じられた。
先生と生徒は、人間としては平等でしょう。
でも、教える側と教わる側という、明確な立場の違いがあります。
立場まで平等だと思っているから、指導を素直に受け入れられないのでしょう。
もう一回やり直せと言われたら、返事は「押忍」です。
そして、もう一回やればいいんです。
やり直せる人とやり直せない人、今後、どっちの人が成長できるでしょうか。
「白いモノでも、上が黒と言ったら黒になる」というのとは根本的に違います。
道場は、子供に対しては心身教育の場です。
やり直せない人が、大人になって職場で「KY」と言われる人になるんです。
武芸の世界は、自分の所業・所作や心の持ち方が、師匠の目や心にどのように映る・響くかで評価を受けます。
自分が思っている評価が受けられない時、師匠に見る目が無いと取るか、自分に足りなかったものは何だろうと思慮するのか。
見る目が無いと思うのなら、師匠を変えるべきです。
しかし、そうでないなら、すぐに答えを求めずしっかり自分で考える。
答えは、普段の稽古内にゴロゴロ転がっていたり…
武芸では、「上達」のことを「気付き」と表現します。
自分で気付かない人は、何も築けないのです。
(なぜ稽古中に帯止めを使用してはいけないか、
整列に関して口うるさく言うか分かりますか?)
ある保護者の方が、子供が注意されたことについて質問があるということで、電話でお話を聞かせてもらいました。
稽古を頑張っている子供たちは、幼いながらも「押忍の精神」を自分なりに分かってきています。
が、空手や武道の経験の無い保護者の方は分からないのでしょう。
経験が無いのだから無理はないと思います。
会話の中で、「ヤ○ザと同じじゃないか」と言われたのがショックでした。
残念でした。
悲しいです。
理解していただけるよう、日々修行していきたいと思います。